陰キャ・陽キャの定義に関する提案
陰キャ・陽キャという言葉が使われ出したのはいつ頃だったか, 最早思い出せないほど当たり前の言葉になりました.
学術の世界では定義のはっきりしない言葉を使うと相手を不快にさせてしまうのですが, 「陰キャ・陽キャ」などはその最たるものでしょう. 定義が決まっていません.
こういう言葉を使うのを気持ち悪いと感じる人も多いはず. 本稿はその気持ち悪さを払拭し, 気持ちよくなるための記事です.
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世間で言われる陰キャと陽キャ
まずは世間で言われる陰キャと陽キャの意味を確認していきたいと思います.
「陰・陽」とは, 光と影, 表と裏, positive と negative, ジェダイとシスであり, 「キャ」の部分はもちろん character を略しています. また, 善悪と関係がないことは付しておかねばなりません.
Character(性質, 性格)とありますので, 人の性質や属性を表す言葉です.
一般に陰キャは「陰湿・暗い・後ろ向き・コミュニケーションが苦手」という特質を有し, 陽キャは「明るい・前向き・友人が多い・初めて話す相手ともコミュニケーションが取れる」という特質を有するとされています.
また, 陰キャは「オタク」という属性と結び付けられることが多々あり, 陽キャは陰キャのことを「気持ち悪い」と感じることも多いようです. 陰キャから見た陽キャは「パーソナルスペースに無遠慮に入り込む怖い人」であるらしく, 両者の対立を深めています.
問題提起
こうした世間一般認識が定義として不十分であることは明らかです. 例えば「陰湿だがコミュニケーション能力は高い」という人は?「明るいけどオタク」という人はどうカテゴライズされるのでしょう?Youtubeを見ていると話が面白いゲーム実況者はたくさんいます.
陰キャと陽キャを「行動」や「能力」で分類しようとする試みも存在します. 例えば「相手の目を見て話せない人は陰キャ」, 「街中でばったり会ったときに声を掛けるのが陽キャ」といった具合です.
しかし, 能力は鍛えることができます. 「相手の目を見て話す」という能力は1か月練習すれば大半の人は身に着けることができますが, 「陰キャから陽キャに変わった」という話はあまり聞きません. また, こうした定義も人によってまちまちですし, 区別が不明瞭であることは同じです. 「相手の目を見て話すことはできるけど, 街中で知り合いに会っても話しかけない人」は陰キャなのか, はたまた陽キャなのか?
こういう問題を考えること自体が既に陰キャっぽいですが, では「陰キャっぽい」とは何なのか?
陰陽という分類に多くの人間が共感し, 価値を見出したからには人間の本質を考える上で多少なり価値あるものなのでは, と思わずにいられません.
しっくりこない陰キャこと私
陰キャと陽キャの境界は不明瞭ですが, 不思議なことに陰キャは「自分は陰キャである」という確信を持っています(陽キャはそうでもないようです).
私自身は誰とでも仲良くできるタイプですし, コミュニケーションに不便を感じることはこれまでの生涯でありませんでした. 特段暗いと言われたこともありません. しかし, 世間一般に言われる陰キャの性質を聞いたとき「自分は間違いなく陰キャだ」と感じました.
友人には, しばしば「どこがやねん!」と突っ込まれることがありますが, どうやら私以外の陰キャも私同様, 能力や表面的な性質に依らず自身を陰キャだと信じ込んでいる節があります.
このあたりが「陰キャと陽キャの定義」に大きなヒントを与えているのではないかと思います.
則ち, 陰キャ・陽キャを区別するのは表面的な性質や, 能力, 行動ではなく, もっと内面的なもの(考え方)なのではないか?ということです.
「暗い or 明るい」, 「内向的 or 外交的」という性質は, その考え方によって表面に表れるだけだと.
陰キャ・陽キャの定義に関する提案
そこで私が考えたのは「世界(自分の周囲)の捉え方の違い」でした.
陰キャとは「世界を否定的に捉え, 何事にも批判的であり, 客観的判断に重きを置く人間」, 陽キャとは「世界を肯定的に捉え, 何事にも積極的で, 主観的・直感的な判断に重きを置く人間」である. そう考えれば, 表面に表れる様々な形質に説明がつきます.
世界が自分に悪影響を与えるものだと思えばこそ, 積極的にコミュニケーションを取らず, 結果としてコミュニケーションが苦手になります. 逆もまた然り.
なぜ陰キャから陽キャにクラスチェンジするのが難しいのかもよく分かります. 陽キャになるということは, 世界に対する認識を180度変えることなのです. 考え方を変えずに行動だけを陽キャっぽくしたところで, 肉体と魂が乖離し, 辛くなっていくことでしょう.
私自身は長いことこの考え方に納得していたのですが, 2020年ごろに私の中の「陰キャ論」を打ち崩す大事件が起き, 考えを訂正する必要に駆られました. 上記定義には「なぜ否定的(または肯定的)に世界を捉えるのか?」という, より本質的な観点が欠如していたのです.
先人(故人ではない)の教え
私の考えの不備に気付かせて下さったのは岡田斗司夫先生が「AKB襲撃事件」を語った回.
氏は「非モテとリア充(陰キャと陽キャと完全に同一のもの, と私は感じました)の違いを言語化しよう」という試みの中で, 両者の違いは「資格が必要だと思うかどうかである」と論じていました.
則ち, リア充とは「世界の全ては自分のためにある」と無条件に信じることができ, 非モテとは「何かを得るためには, その資格が必要だ」と考えてしまう人のことだというのです.
「どこからが友達?と考える人はリア充ではない. リア充は友達であることに資格など必要としないからだ」と.
これを聞いたときの私の納得感は一通りのものではありません. 世間一般の認識や, それを生み出す考え方の根幹すべてが一直線に繋がったように感じ, この問題全体が一瞬で透明になって見えました.
これが納得か, と.
もちろん, この納得は個人的なものです. 雰囲気で出来ている言葉に厳密な定義の正解はありません. 違和感を感じた方には, 是非とも陰陽論の根源的解決を目指して欲しいと思います.